こんにちは、こんばんは!
ここのところ、「まじめな話 2」をあまりしなくなった兄やんです。
さて、今日は「常識」という言葉が使う人によって、その意味や背景が違ってくる、ということをお話したいと思います。兄やんのブログを普段から読んでいる人には、大体想像がつくと思いますが、別に哲学的な話ではありませんので、ご安心下さい。
まず、悪い方からお話します。
自分自身が学ぶことを放棄し、自分がそれまでに学んだ「常識」を絶対的に正しいという前提で、「常識」を押し付ける人がいます。
新しいことを受け入れられない人、新しいことを勉強するのが面倒に感じている人、今の状態に利権を持っている人などは、新しいことを否定し、自分達を肯定するために「常識」という言葉を使います。
いわゆる、最近の「常識力」や「いまさら聞けない
」、「漢字関連
」の本なども、こういった考えの延長の人が扇動したり買ったりするのでしょう。
そもそも、「常識」というものは刻一刻と変化していくもののハズです。それを、
「昔はこうこうこうだった」
「それくらい常識だ」
といったような態度で、古い価値観を押し付けたりする人の場合、「常識」ではなく「固定観念」であり、ひどい人になれば、「思い込み」でしかありません。
また、「いまさら聞けない」なんていうのは、自分自身を大きく見せようとするような、「成長を阻害する余計なプライド」でしかありません。
たとえ何歳になろうとも、相手が子どもであっても、学べることは絶対にありますし、そういった姿勢がないということは、「自分は偉いが相手はバカである」と言っているのと同義です。
わけのわからないプライドなんて捨てて、相手が誰であろうと、素直に聞けばいいのです。人間的に心を通わせるためには、そこがスタートです。それをしないで上意下達のような一方的な物言いをすれば、反感を買うだけです。
漢字に関しても、「言葉」や「常識」と一緒で、時代と共に使用頻度が下がったり、その意味合いが変わったりするものです。
例えば、「号泣」という言葉の意味を辞書で引くと、
「大声をあげて泣くこと。泣き叫ぶこと。」
となっていますが、今現在「号泣」という言葉をこういう意味で使っている人がどれだけいるでしょうか?特にマスコミなんかは、涙を流しながら会見をしたり、涙を浮かべただけでも「号泣」などと間違った使い方を平気でしています。
こうやって、影響力のある何かが、言葉を世の中に広めたり、影響力のある人間が造語などを作ったりすれば、良い悪いは別として、言葉の意味は変わっていくものなのです。
それに抗ったり、「それは違う!」とか言ったところで、詮無いことなのです。
これとは違い、常に変化にアンテナを張り、新しく変化したことの浸透具合を加味して「常識」という言葉を使う人の方が、理に適っていると言えるでしょう。
そもそも、こういう人が使う「常識」というのは、今までの「常識」の上に新たな「常識」が堆積したようなものです。
実際には、時間が経過し、いろんな物が堆積していたら、その「今」の状況こそが「常識」なのであり、最初に挙げたような古い「常識」を押し付ける人たちは、「今」を見ないで、
「昔はこうだった」
という、考古学的なことを言っているのに過ぎないのです。
こういった思考回路でいると、当然新しい発想などできるハズもありませんし、今必要とされる改革だったり、世の中の変化というものは、今までの考え方そのものを根本的に変えなければ、実現などできやしません。
官僚や既存の政治家がやっているような、小手先のやり方や数字、ちょっとした仕組みを入れ替えるなどというような、姑息なことをしたところで、必要な変化をもたらすことなどまずできません。
もっとも、彼らはそういった変化が必要だということに気づいていないほど、アホな可能性もありますし、「それよりも利権、利権」という考え方なのかもしれません。
いずれにせよ、今現在の現状を直視しないで、過去のイメージ、思い出だけで今を語るような人たちには、さっさと退場してもらいたいものです。
そういう意味で、昔の人は潔かったように思います。
「後は若い者に任せよう」
「時代の変化についていけない自分は一線から身を引こう」
と、世代交代や循環を促すよう、現実を直視している人が多かったように思います。(全員が全員そうではないでしょうが)
だからこそ、今、自分達が生きている礎を作ってくれた人たちに敬意を表す、「年長者を敬う」という文化が生まれたのではないでしょうか?
しかし、今の世の中を見ていると、「年長者を敬う」ことありきで、敬意を表されるに値しないような行動しかしていない人が増えているように思います。
兄やんとしては、こういうことを反面教師として、自分をできる限り成長させ続けながら、もうついていけないと感じたら、一線から身を引いて、別の方法での貢献をしようと思います。
